腰椎分離症からの復帰|高校野球で補欠からレギュラーまでの1年記録
第1章:なぜ自分がケガをしたのか ― 原因の自己分析
疲労の蓄積と回復不足
腰の違和感を感じたのは、高校1年の秋季大会が終わった直後のことだった。「ちょっと張ってるな」と思いながらも、練習は止まらない。1年生としてチームに食らいついて行くには、少しの異変で止まるわけにはいかない――そう思っていた。
朝練から放課後の練習まで、ほとんど休みのない生活。土日は試合や遠征。疲労は確実に蓄積していたのに、当時の僕には『休むこと』の重要性が分かっていなかった。
今振り返ると、毎日削り取るように練習する中で、自分の体が限界に近づいていたサインを見逃していたのだと思う。
フォームと柔軟性に潜むリスク
もうひとつ大きな要因は、身体の使い方と柔軟性の不足だった。
当時の僕は、バッティングでも守備でも腰を反らせるクセがあり、反り腰のままプレーしていた。特にスイング時に腰を大きく反らしていた。それが知らず知らずのうちに腰椎に負担をかけていた。
さらに、股関節やハムストリングの柔軟性が足りず、本来可動すべき部分が動かない代わりに、腰が無理して動くことで大小運動が起きていた。
「技術がある選手=ケガしない選手」ではない。
今ならハッキリ言える。「体を理解して使える選手」が長く活躍するのだと。
腰椎分離症というケガを知る
医師の診断は「疲労性の骨折」。この時、練習の“しすぎ”が必ずしも正義でないと気付かされた。
腰椎分離症は、主に10代のスポーツ選手に多い疲労骨折。
特に野球や体操など、体感を強くひねるスポーツで怒りやすい。症状は腰の違和感や痛みだが、最初はただの筋肉痛と見分けがつかないこともある。
僕のように、”「まさか自分がそんな大きな怪我をしているとは思わなかった」”という選手は多いと思う。
でも、だからこそ知っておくべきだと思う。
練習だけが努力じゃない。回復やケアに向き合うことも、成長のための立派な努力なのだと。
第2章:プレー禁止の日々 ― 焦りと孤独の3ヶ月
グラウンドの外から見る日常
毎日練習を見ているだけ。仲間が成長していく中で、取り残されていくような感覚に襲われた。
ケガをした翌日から、僕は練習を”見学するだけの立場”になった。
毎日同じ時間にグラウンドに行き、ウォーミングアップもノックもバッティングも、一切参加せずベンチの外から見ているだけ。
最初の数日は「治ったらすぐ戻れる」と自分に言い聞かせていたけれど、そんな気持ちは長く続かなかった。
練習中に飛び交う声、泥だらけのユニフォーム、バットにボールが当たる音――そのすべてが、自分からどんどん遠ざかっていくようで、胸の奥がヒリヒリした。
特に辛かったのは、同期の仲間たちがどんどん成長していくのを、何もできずに見ていることだった。
「今、俺は完全に置いてかれている」
そう感じた瞬間、心の中で何かが崩れた気がした。
リハビリのスタート:地味で単調なトレーニング
医師の指示は「3ヶ月間は完全にプレー禁止。リハビリと体幹強化に専念すること」。
僕が最初に取り組んだのは、いわゆる”地味な“トレーニングだった。
プランク、股関節ストレッチ、ヒップリフト…。誰にも見られない努力の積み重ねが始まった。
それまで「筋トレ=ベントプレスやスクワット」だと思っていた僕にとって、これらのリハビリメニューは正直言ってつまらなかった。
でも、毎日自宅でコツコツと取り組み、フォームや体の動きに集中する打ちに、次第に「これが自分の土台を作ることなんだ」と理解できるようになっていった。
焦りで無理をして、再発しかけた
ある日、仲間の練習に混じりたくなって、少しだけ素振りをしてしまった。
結果、軽い素振りをしたことで、腰の痛みがぶり返した。再発寸前で「絶対に無理しない」と誓った。
そう決めてからは、毎日の行動をルーティン化し、焦らずに前に進むことだけを意識するようにした。
1日1日が、自分との戦いだった
学校が終わってからチームの練習を見て、帰宅してから自分のリハビリメニュー。
「今日は〇〇秒プランクができた」「股関節の可動域が少し広がった」――――そんな小さな成長を自分で記録しながら、毎日を過ごしていた。
リハビリは誰も褒めてくれない。
試合のように結果が出るわけでもない。
でも今振り返ると、あの3ヶ月間が、自分の土台を作った最も濃い時間だったと断言できる。
第3章:再出発 ― ケガ明けで意識した「基礎の再構築」
体の使い方をゼロから見直した
腹圧・股関節・骨盤の連動を意識したフォーム改造。全ては腰を守りつつ、最大限のパフォーマンスを出すために。
3ヶ月のリハビリ期間を経て、少しずつ運動強度を戻せるようになった僕は、復帰を焦る気持ちを抑えながら、慎重に「体の使い方」を見直した。
まず取り組んだのは骨盤と股関節の使い方の改善。
以前は、下半身の連動が不十分で、腰で全てをこなそうとしていた。今は、「股関節で地面を押す」「腹圧を高めて体幹を固める」ことを常に意識するようになった。
スイングも守備も、最小限の力で最大の効率を目指す。
それは、ケガによって得た視点だった。
「見えない努力」で差をつける覚悟
グラウンドに復帰しても、すぐにスタメンに戻れるわけではなかった。むしろ、ケガ明けという理由で完全に「評価ゼロ」からのスタート。
だからこそ僕は、「人に見えない部分」で差をつけることを決めた。
練習ノート、食事管理、試合分析。地道な習慣が、後の飛躍を支えた。
第4章:新チーム始動 ― 評価ゼロからのレギュラー挑戦
居場所がない現実と、静かな闘志
高2の春、新チームが始動した。
だが、そこに僕の名前はなかった。背番号なし、ノックも回ってこない。だが腐らず、自分だけの課題に集中した。
「またケガするかも」という不安もあったけれど、それ以上に「今度こそ、自分の力で這い上がってやる」という強い覚悟があった。
チャンスは、準備していた者にしか掴めない
ある日、主力選手が体調不良で休み、紅白戦で急きょ僕に出番が回ってきた。
「今しかない」と思った。
結果は2打数2安打、守備でもランナーを刺してベンチを沸かせた。
その日から少しずつ、コーチの視線が変わったのを感じた。
練習試合に呼ばれ、ベンチ入りし、ついには公式戦のスタメンに名を連ねた。
地道に積み上げた準備が、ようやく報われた瞬間だった。
最終章:ケガは「終わり」じゃなかった。新しい自分を作る始まりだった
あのときの挫折が、今の自分を作ってくれた
ケガを経て、「プレーできることが当たり前じゃない」と気づけた。
ケガをした直後は、正直、すべてが終わったように思えた。
でも、あの期間があったからこそ、僕は「自分の体と向き合うこと」「メンタルをコントロールすること」「継続すること」の大切さを学べた。
ケガがなければ、今の自分はいなかった。
同じように悩む誰かへ、伝えたいこと
この文章を読んでいるあなたが、もし今ケガをして苦しんでいるなら、伝えたいことがある。
焦らなくていい。止まっているように見えても、あなたが積み重ねる毎日は、確実に前に進んでいる。
ケガをしたことに意味はなかったかもしれない。
でも、「その後の行動」に意味を持たせることは、きっとできる。
まとめ:ケガを超えた先に見えた景色
あの苦しかった1年間が、自分を変え、支えてくれる土台になった。
腰椎分離症というケガにより、一度は道を閉ざされたように感じた高校野球。
だけど、その痛みと向き合い、リハビリと努力を重ねた1年間は、僕の野球人生において忘れられない時間となった。
再びグラウンドに立ち、仲間と同じユニフォームを着て、レギュラーとして戦えたこと。
それはただの「結果」ではなく、「生き方の証明」だったと思う。